「第24回ウォーキングの会」(2017年3月25日)

~大手町~後楽園~神田明神

桜はまだまだ三分咲にもなっていませんでしたが、暖かい日和の中、第24回「ウオーキングの会」に10名が参加しました。
午前10時に大手町のビルの谷間にある「平将門首塚」に集合しました。
平将門は武士の先駆けとして、弱気を助け強きをくじく性格で民衆より厚い信望を受けた人物。
下総国で兵を起こし坂東八か国を平定したが、天慶の乱で憤死。将門の首級は京都に送られたが、白光を放って東方へ飛び去り武蔵野国芝崎の地に落ちて埋葬されたのが、この「平将門首塚」の地といわれています。
この首塚を粗末に扱うと怨霊の祟りがあるといわれ、古跡保存碑にお尻を向けてはいけないここで、集合写真を撮ってからウオーキングがスタート。

皇居内堀通りに出て、白山通りへ右折してすぐにあるのが「一ツ橋」。
徳川吉宗が御三卿の一つ「一橋家」を創設した所。
内堀通りから竹橋交差点を右折して首都高竹橋ジャンクションに覆われている「雉子橋」へ。
ここに明治9年から17年まで大隈重信の雉子橋邸があった由。
明治15年創立の「東京専門学校開設広告」には「東京麹町区飯田町1丁目1番地東京専門学校事務所」と記されているが、それがここの大隈重信の雉子橋邸です。
ここに高田早苗らが半日間詰めて入学の申込を待ち受けた~と「半世紀の早稲田」(昭和7年発刊・非売品)に記されています。
九段下へ向かう右側に千代田区役所があり、そこに「大隈重信候雉子橋邸跡」の石碑があります。
早稲田大学創立125周年時に、早稲田大学と千代田稲門会が設置したそうです。
石碑の頭は大隈講堂の時計台を模して造られ、台座は大隈講堂の煉瓦が使われ、校友にとっては一見に値する石碑と思いました。

次に東日本大震災で天井が落下して以来使われていない九段会館に隣接する「昭和館」に立ち寄りました。
戦中・戦後のくらしを展示する所です。
そこで昔懐かしい「ポン菓子」をもらうために一時の休憩をしました。
偶々、日本武道館で日本大学の卒業式が行われていたことで、九段下からホテルグランドパレスの間は着物&袴姿の女子大生が多く行きかい華やかに見えました。

九段下から飯田橋駅に向かう「目白通り」は「飯田橋散歩路(サンポーロ)」と言われる道で、今回の「ウオーキングの会」のメインテーマがいくつもあり、鳥井幹事の解説に参加者全員が「へぇ~」と驚きと感心の心で聞き入っていました。
まずは「東京女子医科大学(東京女醫學校)発祥の地」があります。
そして、この辺は江戸城の台所衆の組屋敷があったので「台所町」という町名が残っています。
次は「北辰社牧場跡」です。函館の五稜郭の戦いで負けた榎本武揚が開いた牧場です。
こんな所に牧場があったとは驚きます。最盛期には乳牛40~50頭を飼い、牛乳も作っていたそうです。

次は、「徽章業発祥の地」の碑です。東京大神宮入口の角に建っています。
鈴木梅吉がこの地に日本帝国徽章商会を創ったことで、現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れをくんでいるといわれています。
「徽章」とは、襟章・腕章・肩章・胸章・袖章・帽章などで、今はワッペンやペナントのことも指しています。

次は「新徴組屯所跡」です。
ここの武家屋敷を屯所とする浪士組「新徴組」が幕末の警備に当たり、「新徴組」は京の警護のために上洛、京に残った一派が「新選組」となったという歴史を初めて知りました。

次は、「甲武鉄道飯田町駅跡」です。明治22年に新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。
甲武鉄道の増資に際し大隈重信の協力を得た由、その後御茶ノ水方面に延長されました。
明治39年に甲武鉄道は国有化され、昭和8年に飯田町駅は貨物専用駅となりました。
この奥のホテルエドモントが旧駅構内だったそうです。

次が「日本赤十字社跡」です。西南の役のとき佐野常民は傷兵の救護活動のために博愛社を結成、明治19年にこの地に博愛社という病院を建て、国際赤十字条約に加入し、博愛社が日本赤十字社と名を改め、大正元年に芝へ移るまでここにありました。

明治15年に明治政府は飯田町5丁目に国学を研究する「皇典講究所」が設け、明治22年にこの講究所内に「日本法律学校」が創設され、23年には神職の養成を行うため「國學院」を開校した。
これが日本大学・國學院大學となり、また「皇典講究所」内に東京府尋常中学(現都立日比谷高校)の補充中学校の名称で創設されたのが、後に東京府立四中→現都立戸山高校となります。
その「皇典講究所」跡地に、「國學院大學開校の地」「日本大学開校の地」「東京府立第四中学発祥の地」の碑が建っています。
そして、JR飯田橋駅近くに「東京農業大学開校の地」があります。
この「飯田橋散歩路(サンポーロ)」は実に中身の濃い散策となりました。

飯田橋駅からは中央線沿いに水道橋駅、御茶ノ水駅まで歩き、「湯島聖堂」に行きました。
徳川五代将軍綱吉が儒学の振興を図るため、元禄3年に湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移しました。
これが現在の湯島聖堂の始まりです。
その後、およそ100年を経た寛政9年幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設しました。
明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されましたが、明治4年にこれを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、ここにその歴史を閉じた次第です。
次いでこの年わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌5年には東京師範学校、7年には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ高等師範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展します。
このことから湯島聖堂は「近代教育発祥の地」として言われています。

今回のゴールは神田明神です。1300年の歴史ある神田明神は「江戸総鎮守」として徳川将軍様から江戸庶民までの守り神で、今尚、神田・日本橋・秋葉原・大手町・丸の内などの総氏神様として江戸文化を保っています。
偶々、神殿では結婚式が行われていました。
私は三菱銀行秋葉原支店長としてこの地に勤務したこともあり、毎年、正月は拝殿に昇殿参拝してお札をもらっていました。

最後は、鳥井幹事の顔が利く東京ガーデンパレス内の滝が流れるレストラン「オーロラ」の個室で美味しい中華料理を食べました。
鳥井幹事には、立派な資料作成と十分丁寧な説明ガイド役をして頂き、本当にありがとうございました。
健康のために歩き、歴史を学び、校友と親睦を図る「ウオーキングの会」にもっと多くの会員の参加を求め、今回の報告といたします。

(吉田重雄・48年政経卒)